修験道は、古来、山々を神として崇拝した山岳信仰をもとに、神道・仏教・道教が融合して生まれた宗教で、険しい山にこもって難行苦行することにより、特異な法力や呪力、験力を獲得できるとされています。「修験」は「修行をして迷いを除き、験徳をあらわす」からきており、開祖は、修行者の1人であった役の小角(のちの役行者)とされています。修行者とはそうした修行を行う人々の事です。修験道の中心的な聖地は紀州の熊野三山、葛木山、大和の金峯山で、そのほか日本各地に霊山と賞される修行地が存在しています。
修験道は後山麓の護摩堂から始まります。護摩堂正面には「吉野なる深山の奥のかくれ堂本来空の住家なる」と記された神文額が掲げられています。登り坂が舗装道から徐々に山道に変わり、杉や檜の林が続きます。更に鬱蒼とした原生林を抜けると山の中腹にある「母護堂」が現れ、その脇にある「垢離取り場」で身を清めます。残念ながら女性の参詣者はここまでです。母護堂は役の小角の母が訪ねて来た所であるとする説があり、お堂には母護像、不動明王、小角像が奉られています。
母護堂の先の登山道には「是より女人禁制」の札が立てられています。後山霊験記には「女人を禁ず 女人の身をいとわんが為なり女人の十悪をとく 一には肉食 二には五辛 三には飲酒 四には淫慾 五には不浄のたべものせず 不浄は新産 新死月水の女の煮るもの魚屋、棺屋、猟師経像を売家色里、女色の家等なり 準胝独部の法のみ酒肉五辛をたたずとも妻子をもつもよく勤むれば信心成就すといえども此山に登る人は精進してまいるべし」とあり、男子修練の霊山として母護堂から先は絶対女人禁制とされました。参拝する信者は、精進し参拝前後2週間は肉を断ち、女人を近づける事が禁じられています。
「母護堂」そばの「是より女人禁制」の立て札のある門をくぐると、古来からある修験者達によって踏み固められた険しい道に入ります。歩くことおよそ1時間、高い石垣を登り切ったところで奥の院行者本堂にたどり着きます。麓から数時間の道のりの間に、参詣者の身も心も清々しさを増し、あたかも浄化されるかの様だと言います。
修験道の聖地として名を馳せた霊山後山には、後山を崇拝する高僧や公家などとの関わりが少なくありません。聖武天皇の天平年間、僧行基が後山中の谷の泉湯あたりに住み、弟子に仏像一体を彫らせています。
埋源大師が延喜9年(909年)、各地の名山霊地を巡ったのちに後山を来訪しました。役の小角のあと参詣者が絶えて寂れていた霊山後山に再び道を開き、役の小角の遺跡を復興し七堂伽藍を整備したお陰で、参詣する人々で賑わいを取り戻すとともに、山伏の参詣も後を絶たず、山伏修行の場として広く知られる事となりました。
また、醍醐天皇の延喜12年(912年)んひは観覧僧正を勅使として弘法大師を後山に送り、護摩を焚かせたと言われ、今の弘法大師護摩立会として伝承されています。更に「元弘の変(1331年)」で鎌倉幕府の倒幕に失敗し隠岐に流刑されていた後醍醐天皇が、隠岐から脱出して京に帰還する際に後山に立ち寄り、光明皇后法華般若住金紙、金泥を奉納して天下泰平を祈願し、この地を勅願所としました。
後山行者山は毎年4月18日に開山、11月7日に閉山され、閉山後は一切の入山が禁止となります。